NHK連続テレビ小説「虎に翼」で伊藤沙莉さん演じる「猪爪寅子」のモデルの三淵嘉子(みぶち・よしこ)さん。
日本初の女性弁護士で、初の女性判事で家庭裁判所所長を務めたパイオニア的な偉大な方ですよね。
そんな三淵嘉子さんとは一体何者なのでしょうか。
そこで今回は、三淵嘉子さんのwiki経歴&学歴について調査していきます。
【何者】三淵嘉子のwikiプロフィール
三淵嘉子さんのプロフィールがこちら↓↓
- 名前:三淵嘉子(みぶち・よしこ)
- 旧姓:武藤嘉子
- 生年月日:1914年11月13日
- 年齢:69歳(1984年5月28日没)
- 出身地:シンガポール
- 職業:弁護士・判事・裁判官
1914年11月13日、シンガポールで生を受けた三淵嘉子さん。
一体どんな経歴を歩んできたのでしょうか。
三淵嘉子の経歴
三淵嘉子さんの経歴を幼少期から時系列でご紹介します。
さっそくみていきましょう。
幼少期
三淵嘉子さんは、台湾銀行勤務の父・武藤貞雄さんとノブさんの長女として、シンガポールにて生まれています。
また、名前の「嘉子」は、シンガポールの漢字表記のひとつである「新嘉坡」から名付けられたそうです。
その後、帰国した三淵嘉子さんは香川県丸亀市や東京都渋谷区に移り住み生活しています。
三淵嘉子さんは幼少期から、父親から、
「ただ普通のお嫁さんになる女にはなるな、男と同じやうに政治でも、経済でも理解できるようになれ、それには何か専門の仕事をもつ為の勉強をしなさい。医者になるか弁護士はどうか」
引用:明治大学
と自立する女性になるように諭されて育ったそうです。
シンガポールやニューヨークなどでの勤務を経験し、世界的な視野を持つお父さんからの教育が、三淵嘉子さんを作る礎になっているに違いありませんね。
そんな三淵嘉子さんは大学を卒業後、日本初となる快挙を達成します。
1940年(25歳):日本初の女性弁護士
1938年11月1日に三淵嘉子さんは高等文官試験司法科(司法試験)に合格(合格者総数242名)し、1940年に第二東京弁護士会に弁護士登録をしています。
また、明治大学同窓の中田正子さん、久米愛さんと共に日本初の女性弁護士となる快挙でした。
また、三淵嘉子さんは司法試験に合格して当時のインタビューで、
世の為、人の為、自己の最善を尽したいと思ふのみでございます。
と心境を述べています。
男尊女卑の風潮が根強い時代に、女性発となる弁護士として活躍されてあ三淵嘉子さんは相当の苦労があったはずですよね。
1941年(26歳):和田芳夫と結婚
1941年11月5日に、和田芳夫さん(明大卒)と結婚しています。
2年後の1943(昭和18)年1月には第一子となる男の子が誕生しています。
そんな幸せいっぱいの三淵嘉子さんでしたが、1年半後の1944(昭和19)年6月に夫・和田芳夫さんが戦争に召集されてしまいます。
三淵嘉子さんは、幼い息子を抱えながら、空襲で家を焼かれて逃げ惑い、さらに福島へ疎開するなど、苦しい生活を強いられました。
夫の和田芳夫さんが召集先の中国で発病、1946年5月23日、芳夫が上海から引揚途中に長崎で陸軍病院で病死してます。
1949年(34歳):東京地裁判事補となる
1949年6月28日に、東京地裁判事補となります。
これは、1949年6月4日に初の女性判事補となった石渡満子さんに次いで、女性2人目の快挙でした。
1952年(38歳):初の女性判事となる
三淵嘉子さんは、1952年に名古屋地方裁判所で判事となりました。
判事に認定されたのは、三淵嘉子さんが女性で初めてです。
ホント、素晴らしい経歴です。
1956年(41歳):三淵乾太郎と再婚
1956年、裁判官の三淵乾太郎(初代最高裁長官だった三淵忠彦の子)と再婚されています。
乾太郎さんとは8才差で姉さん女房だったそうで、乾太郎さんが三淵嘉子さんに惚れていたそうです。
なお、乾太郎さんも再婚で、4人の連れ子がおられたようですね。
お二人の別荘が今も残されているようです↓↓
きっと、素敵な時間を過ごされていたのでしょうね。
1956年(42歳):東京地裁判事となる
三淵嘉子さんは、1956年に東京地裁判事となっています。
広島と長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた「原爆裁判」を担当。
1963年12月7日、判決は請求棄却とするも日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と明言しています。
1972年(58歳):初の女性家庭裁判所所長
1972年、新潟家庭裁判所長に任命され、初の女性家庭裁判所長となる。
- 1973年11月、浦和地裁の所長
- 1978年1月、横浜地裁の所長
を歴任し、1979年に退官しています。
1980年(66歳):弁護士復帰
三淵嘉子さんは、1980年に弁護士に復帰しています。
その後は日本婦人法律家協会の会長や労働省男女平等問題専門家会議の座長を務めています。
向上心が素晴らしいですよね。
1984年(69歳):骨癌のため死去
1984年5月28日、午後8時15分、骨癌のため69歳の若さで亡くなっています。
なくなる直前まで、困っている人のために尽力されてきた三淵嘉子さん。
素晴らしい功績を残されてきました。
そんな三淵嘉子さんの学歴はどうだったのでしょうか。
三淵嘉子の学歴
三淵嘉子さんの学歴のまとめがこちらです↓↓
- 東京府青山師範学校附属小学校
- 東京女子高等師範学校附属高等女学校
- 明治大学専門部女子部法科
- 明治大学法学部
嘉子は、東京府青山師範学校附属小学校から、1932(昭和7)年3月に東京女子師範学校附属高等女学校(お茶の水女子大学付属高等学校の前身)を卒業した後、1932(昭和7)年4月、第4期生として明治大学専門部女子部法科に入学した(入学する際、母親のノブは法律等を勉強しては嫁の貰い手がなくなると泣きながら猛反対したという)。1935(昭和10)年3月に卒業した後、さらに明治大学法学部に編入、1938(昭和13)年3月に卒業した
引用:明治大学
それぞれ詳しくみていきましょう。
出身小学校は東京府青山師範学校附属小学校
教員および家塾の教員の志願者を集めて、小学校教員に必要な学科および教授方法を伝習させたのが始まりの学校です。
現在は、東京学芸大学附属高等学校が校舎を使用しています。
出身中学校は東京女子師範学校附属高等女学校
なお、東京女子師範学校附属高等女学校は、現在のお茶の水女子大学付属高等学校の前身です。
明治大学専門部女子部法科を卒業
1932年、明治大学専門部女子部法科に第4期生として入学し1935年に卒業されています。
当時、女学校を卒業し、さらに大学に進学することは珍しく、
三淵嘉子さんのお母さんも、
『お嫁に行けなくなる!』
と泣いて反対されたそうです。
そんな反対をも押し切って自分の道を切り開く三淵嘉子さん。
凄すぎますよね。
また、当時女性が法律を学べる唯一の学校だったようです。
出身大学は明治大学法学部
なお、三淵嘉子さんは大学卒業時には総代を務めるほど優秀な生徒だったそうです。
「三淵さんは大学卒業時に総代を務めるほど優秀で遊ぶ暇もないほど勉強熱心だったと聞きます。裏を返せば、そこまで優秀でなければ、女性は受からない時代だったのです」
引用:ニュースポストセブン
総代とは、リーダーのことで現在で言えば学級委員長みたいなポジションでしょう。
総代になる程ですので、成績や人格も含めて男子学生を凌ぐものがあったとされています。
成績に関しては本家の男子学生を凌ぐものがあり、当時の明大の男子学生にとって女子学生の存在は競争刺激剤としての存在意義があったのではなかろうか。
引用:明治大学
女性初の記録を樹立してきた三淵嘉子さん。
学生当時から、素晴らしい成果を収めてきたことがよくわかりますね。
【何者】三淵嘉子のwiki経歴&学歴!女性初の判事で家庭裁判所の所長だった!まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は、【何者】三淵嘉子のwiki経歴&学歴!女性初の判事で家庭裁判所の所長だった!と題してお届けしました。
女性で初の弁護士で判事で、家庭裁判所所長を歴任され、女性の職域拡大への足がかりを築いた偉大な方でした。
三淵嘉子さんの歩まれた人生の偉大さに改めて気付かされました。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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